「っな、なんだここは‥‥!?」
与えられたのはみすぼらしい土蔵が一つ。ところどころはげ落ちた壁、中は埃っぽく、ベッドどころか椅子も無い。無造作に積み上げられた荷物のせいで、足の踏み場も無いとはこのことだった。
「ジェレミア、どうかしたのか?」
怒りと動揺が声に出たせいで、主が不安げに見上げてくる。日本人が与えたあまりにもあんまりな仕打ちを、幼い主はまだ気付いていない。ジェレミアは必死になって取り繕った。
「なっ、何でもありません! あぁ、その、少し掃除が必要なようでして‥‥っ」
「そうか。私も手伝うぞ」
「いいえっ! ルルーシュ様にそんなことはさせられません!」
おのれ日本人。
ジェレミアは内心散々に罵ると、強い陽射しから主の柔肌を守ろうと仕方なく土蔵に足を踏み入れることにした。途端、ギシっ、と不吉な音がする。
「木造か」
「っう、あ、‥‥‥ぇえ! そのようですねっ、」
今にも抜け落ちそうじゃないか許せん日本人。
なにが首相、なにか枢木か。大事な主をこんなところに住まわせようだなんて。ジェレミアはますます怒りを募らせながらも、一歩一歩足場を確かめるようにして奥へと進む。
「暗いな‥‥光が見えない」
「申し訳ございません。窓は一つ、それもどうやら手が届きそうにありません‥‥」
「ジェレミアが謝ることじゃない。‥‥‥すまない、むしろ謝るのは私のほうだ。お前を巻き込んでしまった」
しゅんと項垂れるルルーシュの姿が哀れを誘う。ジェレミアは主の足下に跪き、小さな手をそっと握った。
「何を仰られます、ルルーシュ様。私が願ったことなのです。そのようにご自分をお責めにならないでください」
母マリアンヌと妹ナナリーを失った稚い人。公にはテロリストによる犯行と発表されているが、そうではないことをこの賢い少女が知らない筈が無い。体が回復してすぐに日本へと人質同然に送られた彼女の世話係としてジェレミアは同行を願い出た。あの日、一つの家族を守れなかった責任を取る為に。そして、早くから幼いルルーシュを主と認めたがゆえに。
「貴方を一人にさせることこそが、このジェレミアの不幸にございます。ですから今、貴方の傍にいられる私は幸せ者だと知っていただきたい」
白く細い指先に唇を落とす。忠誠の証だ。ルルーシュは最初何をされたのか分かっていなかったようだが、徐々に顔へと血を上らせていった。可憐な顔は実に血色が良い。
「あ、‥‥‥ありがとう、ジェレミア、」
小さな体を喜びに震わせ、ルルーシュは恥ずかしそうに笑った。家族を失った直後は、表情すら失っていた主をジェレミアは知っている。こちらまでもが嬉しくなって、日本人への恨みなど消し飛んでしまった。
と、思っていたのだが。
「出ていけっ、このブリキ野郎っ!!」
不躾な物言いは子供の声だった。ジェレミアは目を吊り上げて音の方向を睨みつける。ルルーシュを背後に庇い、扉に立つ日本人の子供を威圧感たっぷりに見下ろした。
「貴様‥‥っ、今、何と言った!?」
「出ていけって言ったんだ! ここは俺の場所なんだぞっ、ブリキは出ていけ!」
「無礼な!!」
子供だろうとルルーシュを侮辱する輩にジェレミアは容赦しない。相手が誰かは気付いていたが、一発殴り飛ばしても罰は当たらない筈だ。どうやら礼儀を知らないガキのようなので、これは教育的指導だとジェレミアは拳を握る。
「いけない、ジェレミア」
「‥‥‥っ、しかし!」
「やめなさい。お前の立場が悪くなります」
言葉遣いを改めるとともに、ルルーシュの指がジェレミアの服の裾を引っ張った。そしてゆっくり前へと進み出る。普段は閉じていることの多い瞼を押し上げ、ルルーシュは菫色の瞳を覗かせた。
「はじめまして、枢木首相のご子息、スザク様ですね?」
返事は無い。驚いたように息を呑む声だけを知覚し、ルルーシュは丁寧に頭を下げた。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと申します。婚約者として、貴方に誠心誠意仕えさせていただく為に参りました」
主の下手な態度に、ジェレミアは悔しさでいっぱいだった。その身一つで本国に捨てられたとも言える彼女がそうすることは何も間違ってはいない。しかし、見るからにルルーシュとは釣り合わない少年に対し、気を遣ってみせねばならない主の立場が不憫でならなかった。
「お前、が‥‥?」
「はい。突然で、驚かれたことでしょう」
冷静に見えるルルーシュだが、初めて話す婚約者を前に緊張しているようだった。慎重に距離を縮める。ジェレミアは慌てて主の傍へと侍った。
枢木の倅は、突然現れた婚約者に目を白黒させていた。しきりに瞬きを繰り返す大きな目が、ルルーシュを上から下まで何度も往復する。
「お前、‥‥‥目が、‥‥足もっ、」
「ご不満でしょうが、決してブリタニアが日本を侮っているというわけではなく」
「っう、うわぁああああ!!」
「あの、‥‥‥‥‥ジェレミア、彼はどこへ行った?」
「森の中を走っていきました。いやはや、まるで猿ですな」
あれが首相の息子、将来の日本を背負って立つ子供か。日本は駄目な気がする。
ジェレミアの辛口の発言に、ルルーシュは苦笑した。車椅子を自分で動かし、雑多に物が並ぶ蔵へと向き直る。
「さて、ここが私の家か。新しい生活が、始まるのだな‥‥」
少し進めば、車椅子の車輪がこつりと何かにぶつかった。ルルーシュはもう気付いているのだろう、ここが人の住むような場所ではないということに。
けれども悲壮感を感じさせない明るい顔で、ルルーシュは大きく首を巡らした。ブリタニアの匂いがしないと言った主の声は、どこか弾んでいたようにも思う。
そんなルルーシュが、不意に真剣な顔をした。見えぬ目でジェレミアを探し、手を彷徨わせる。すぐに握ってやると、ほっと息を吐き、そしてガラス玉のような瞳を向けてきた。
「これが、最後だ。‥‥‥ジェレミア、本当に後悔はしていないか?」
もう片方の手が宙を舞う。それを自分の頬へと誘導し、ジェレミアは強く頷いた。ルルーシュは肩で大きく息をすると、次にはもう屈託の無い笑みを浮かべていた。
「さあ、掃除だな! 先ほどは手伝うと言ったが、正直私は役に立たん。だから外で待っているから、終わったら呼んでくれ」
ぱっと手を離し、さっさと蔵の外へと出ていってしまった主をジェレミアは止めなかった。きっと今頃、自分の見ていないところで盛大に泣いているだろうから。
優しい主が戻ってくるまでに急いで片付けよう。ジェレミアは袖を捲り上げ、慣れない掃除の為に立ち上がった。