夏、君は




 蒸し暑い、夏の午後。
 王宮内を警備中のキューエルの視界に、小さな影が横切った。王宮に子供の姿は珍しくはない。皇子皇女を数え上げれば百を越えるのだ、普通に考えれば先ほどの影は皇族のもの。
 しかし、キューエルは警戒と不審感を滲ませ、小さな影に近づいた。庭の茂みに逃げ込み、震えているのは少女に間違いない。
「君、ここで何をしている?」
 小さな肩が大仰に震えた。淡い色のドレスの端々が泥で薄汚れている。
 皇女とは思えないみすぼらしい格好は、外から紛れ込んだ庶民かとも思えるほどで。しかし、ブリタニアの警備が市井の人間を通すほどお粗末ではないことなど分かりきっている。貴族の子女か。だがここは皇族の住まう敷地内。子供が一人で出歩くのは不自然だ。
「名前は? 両親は? 失礼でなければ教えてほしい」
 ひどく怯えているのが分かった。子供が苦手なキューエルは、姿勢を低くしできうる限り優しい声音で聞き尋ねる。
「‥‥‥る、るーしゅ、」
 木漏れ日の下で黒髪が揺れた。不揃いな長さのそれは、無遠慮に鋏を入れられたようにしか映らなかった。目を凝らしてみると、ドレスは肩の辺りで裂けていた。
 尋常ではない。息を詰めたキューエルの目の前で、不意に少女が立ち上がった。
「私はルルーシュ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだ」
 頬には濡れた痕。毅然とした表情が印象的だった。

++++

 今年も茹だるような暑さだ。
 重い軍服に身を包んだ警備兵達を昔の己に重ねあわせ、キューエルは彼らの前を颯爽と通り過ぎる。額に浮かぶ汗を拭いつつ演習場へと向かった。体にぴたりと張り付くパイロットスーツも炎天下では充分に暑い。
 本日のナイトメアによる演習は、一般にも公開される。一般といっても軍関係者の家族に限られるが、普段の働きを見てもらおうと、同僚達は父母や恋人を呼び寄せていた。演習場に近づくにつれて、軍部には似つかわしくない服装をした民間人達が増えてくる。
 婦人達のざわめきにときどき湧き起こる甲高い笑い声。キューエルの眉間に自然と皺が寄った。ひらひらとしたドレス、香水の香り。苛々してくる。
 女性が嫌いというわけではないが、貴婦人は軍部に相応しくない。まるで戦いを知らない甘さだけで出来上がった女性というものが苦手だった。
 しかし結婚するのなら、まさに甘いだけの女が相応しいと知っていた。自分で考えるということをせず、適度な贅沢をして、うるさく騒ぎ立てない。ブリタニアにはそれこそ溢れるほどいそうな貴婦人の中の一人を、自分はいつか妻として迎え入れるのだろう。女は愚かであればあるほど良い、とは誰の言葉だったか。
 考えると憂鬱になった。両親からはいつ結婚するんだとか、相手を見繕ってやるだとか、突き上げは年々厳しくなってきている。相手くらいは自分で選ぼうと何度か女性とは交際をしてきたが、心の底から楽しめた試しが無い。軍人根性がそうさせるのか、女性と付き合っているよりもナイトメアに乗って戦場を駆け巡っているときのほうが遥かに気分は高揚した。
 つらつらと考えていると、体は勝手にナイトメアを収容しているドックに到着していた。ここまでは民間人も入っては来られない。先ほどまで嫌というほど鼻孔を刺激していた甘ったるい香水の匂いもせず、鼻に馴染んだ鉄臭い匂いが立ちこめていた。
 ふと、建ち並ぶナイトメアの足下で白い影が動く。自然とそれを追ったキューエルはぎょっとした。
「御婦人、そこで何を?」
 屋内だというのに日傘を差した淑女が、珍しそうにナイトメアを見上げていた。夏らしい真白のドレス。装飾は少なく涼しそうな格好をした貴婦人は、キューエルの声に振り返った。
 暑さを凌ぐ為か、纏められた黒髪。陽の光を嫌った白い肌。視線が合い、二人は同時に目を丸くした。
「‥‥‥‥失礼。演習場はどこでしょうか?」
 女性にしては低めの声はどこか理知的だった。日傘の向こうにさりげなく顔を隠してはいたが、一瞬で目に焼き付いた美貌はキューエルに既視感を覚えさせた。脳裏に甦るのは木々のざわめき。
 こめかみを伝った汗が、床に落ちた。はっとして瞬きをすると、日傘の淑女は目の前から消え、遠くのゲートからドックの外へと出ようとしていた。
「あ、お待ちくださいっ、そちらは演習場とは反対方向ですっ、」
 淑女はぴたりと止まると振り返り、すたすたと戻ってきた。一瞬見えた耳が赤かった。



 マリーと名乗った淑女は、まだ少女と言っていい若さだった。けれど喋れば知性を感じさせ、キューエルはまるで同じ年かそれ以上の女性と話しているような感覚に囚われた。
 少女との会話は楽しかった。キューエルがある戦場で経験したことを話しても、嫌な顔一つせず、むしろ興味深そうに相づちを打ってくれる。普通の貴婦人が聞けば真っ青になって倒れてしまいそうな血腥い話題にも、その白い頬を少しも変えなかった。
 家族に軍関係者がいるからだろうか。軍人一家に生まれた女性というものは、幼い頃からこの手の話を聞かされているものである。
「いいえ」
 少女はそれだけ言うと、口を閉ざしてしまった。今はとある貴族の養子に入り、とある研究室に務めているのだと言う。とあるばかりで謎めいた少女は、くるりと日傘を回した。
「今日も、暑いですね」
 出自を聞かれたくなかったのか、少女が話題を切り替えた。
「大丈夫ですか?」
「貴方のほうこそ。さっきからお顔が汗まみれですよ」
 慌てて拭おうとすると、頬にハンカチが押し当てられた。レースで縁取られた白いハンカチ。思わず受け取り、少女を見下ろした。日傘で顔は見えなかった。
「‥‥‥‥マリー。貴方とは、以前どこかでお会いしたことが?」
「使い古された台詞ですね」
「え? ‥‥‥あ、いやっ、失礼っ、そういうつもりではっ、」
 男が女を口説く常套句だ。安っぽいにもほどがある。
 また汗がだらだらと噴き出してくるのを感じ、キューエルは焦った。決して疾しい気持ちなど無く、と弁明するが実に白々しく聞こえるから嫌になる。
「‥‥‥‥昔のことです。王宮の敷地内で、迷子になったことがありました」
 慌てるキューエルをよそに、白い手袋をはめた少女の手が日傘をまたくるくると回した。
「一人が恐ろしくて、心細かった。でもそのとき、私を助けてくれた親切な方がいたのです」
 日傘がぴたりと止まった。薄手のそれを間に置いて、少女の視線が向けられている気がした。
 まただ。また、既視感。
 木漏れ日。生温い風。小さく身を丸めて震える少女が。
「キューエル卿」
 現実に引き戻される。頭がぼうっとしていた。
「ここで結構です。迎えも来たことですし」
 演習場が見える。同じ方向から走ってくるのは、キューエルもよく知る同僚だった。
「ルルー‥‥‥‥マリアンヌ嬢っ、」
 ジェレミア卿。
 パイロットスーツに身を包んだ彼は、汗を流しながら駆け寄って来ると少女を責め立てた。聞くとこの少女、付き添いの侍女を撒いてきたらしい。
「どうして大人しく観覧席にいてくれないのですかっ」
「久し振りだったからな。色々と変わっていて、つい」
「一人で危険でしょう!? 何かあったら、」
「今の私を襲うような暇な人間がいるとは思えんが?」
 清楚な印象をぬぐい去り、尊大な口調が実に似合っていた。なおも言い募るジェレミアを軽くいなし、少女は目を丸くしているキューエルに向き直った。
「案内、感謝します。キューエル卿」
 日傘を押し上げ、少女はようやく顔を見せて笑った。ラヴェンダー色の瞳にキューエルが映る。
 鮮明になった記憶の中で、ただ一人、同じ瞳を持つ人間を知っていた。皇位継承権を放棄し、王宮を退いた皇女。
 キューエルは強くハンカチを握り、少女に呼びかけようとした。
 貴方様は、もしや。
「行くぞ、ジェレミア」
 日傘を畳んだ少女は、白い肌を陽射しの下に晒した。遠慮なくジェレミアの腕に手を回し、太陽の眩しさに目を細める。
 夏の午後。あの日、傷つき泣いていた少女は、幸せそうに笑っていた。




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