アリエス宮。母上と、ナナリー、そして自分。空は青。
午後は庭園に行きましょうか、と母上。お部屋で絵本を読んでほしいと言ったのは、ナナリーだった。どちらにすると聞かれ、自分はなんと答えただろう。
階段を上っていた。そうだ、屋上に行きましょうと言ったんだ。天気が良くて風もそれほど吹いていない。だから屋上のテラスでお茶にしましょう、と。
先に駆け出し、踊り場に辿り着く。くるりと振り返り、ね、そうしましょう、母上、ナナリー、三人でお茶を。
そのとき誰かが斬り裂くような悲鳴を上げた。
いいや、違う。窓硝子が粉々に吹き飛ばされ、入ってきた黒尽くめの侵入者達。母上とナナリーは折り重なるように倒れ込み、その後ようやく本物の悲鳴がアリエス宮に木霊した。
「母上‥‥‥ナナリー‥‥‥?」
膝の震えが止まらなかった。自分が今、ちゃんと息をしているかも分からない。口の中が妙に乾いて、ひきつっていた。
「っは、母上ぇ、ナナリっ、‥‥‥っひ、‥‥っあ、ぅあ、ああ」
苦しい。立っていられない。夢だ。夢なんだ。お願い。
誰かっ誰かっ誰か!
「ははうぇえっ!! ナナリぃいい!!」
誰か助けて。
「ルルーシュ様!」
光が見える。
きらきらしている。海だ。視界一杯に広がる海。
「ルルーシュ様っ、ルルーシュ様っ、」
心地良い声。温かい。自分はこの声が、ずっと好きだった。
ルルーシュはゆっくりと瞼を押し上げる。海は薄く広がり、ルルーシュのこめかみを伝っていった。
「あぁ、よかった‥‥」
安堵する溜息が聞こえる。ルルーシュはゆるく首を巡らせ、瞬きした。そこにはアリエス宮で出会った優しい声の男が、ルルーシュの手を握り座り込んでいた。
「あなたは‥‥‥」
「ルルーシュ様?」
名前はたしか、そう。
「ジェレミア‥‥‥‥私の、ジェレミアか?」
男の、ジェレミアの頬がわずかに上気した。それから遅れて、はい、と。
その答えに、ルルーシュの両目からまた涙が溢れ出した。号泣ではない。静かに、微笑みながらルルーシュは泣いた。
「夢を、見た‥‥」
「‥‥‥‥はい、」
「お前の夢だ。暗闇から、お前が私を助け出してくれる夢だった‥‥」
「それは、‥‥‥ようございました。夢の中の私を褒めてやらねばなりますまい」
泣きそうなほどに顔を歪める己の騎士に、ルルーシュはますます笑みを深める。
「ありがとう、ジェレミア‥‥‥あのときからずっと、貴方は、私の騎士様だった‥‥‥」
それを最後に、ルルーシュは再び瞼を閉じて眠りについた。気に入りの安楽椅子に深く身を預けて寝息を立て始める己の主に、ジェレミアは無言でブランケットをかけてやった。
アリエス宮を後にしたのは陽が沈む頃だった。既に東の空は暗い。
引き継ぎの合間を縫ってアリエス宮を訪ねたジェレミアは、早足で軍部へと戻っていた。しかしその足取りは次第に重くなり、やがては引きずるように鈍くなる。ついには立ち止まり、深く項垂れた。傾ぐ夕日が影を作り、ジェレミアの体を暗く染めていった。
「ジェレミア卿?」
女の声がした。側近のヴィレッタに違いない。探しましたと言って、ほっと息をついているのが背中越しに分かる。ジェレミアは緩慢な動作で振り返り、彼女を目視した。どうしたのだろう、随分と驚いた顔をしている。
「‥‥‥っな、泣いているのですか?」
「誰がだ」
「貴方ですよ、ジェレミア卿、」
「そう見えるか」
「見えるも何も、‥‥‥失礼、鼻水が」
控えめに指摘され、ジェレミアはスンと鼻を啜った。頬がすーすーする。喉の奥はひりついて、眼下も痛い。なんだかひどく打ちのめされている自分がいた。
「あの、アリエス宮で何か? もしやルルーシュ様に」
「あの方に大事は無い」
押し殺した声でヴィレッタの発言を遮り、驚く彼女を尻目にジェレミアは歩き出した。涙を乱暴にぬぐい去り、前を見据え、ブーツの踵を大きく鳴らす。
私は、ルルーシュ様の騎士。泣いてなどいられるものか。
++++
「よろしいのですか」
二つの影が廊下の先へと消えた後、二階の窓から階下を見下ろしていたカノンはそっとカーテンを引いた。背後の主に問いかけるも返事が無い為、訝し気に振り返る。
シュナイゼルはチェスの駒を片手に、盤上を見下ろしていた。その眼差しは穏やかで、口元は揺るんでさえいる。
「どう思う?」
チェスの盤上は、対局中のものであった。白がシュナイゼル、そして黒は。
「ルルーシュは、次にどのような手を打ってくると思う?」
楽し気に唇を歪め、甘く蕩けるような眼差しが黒のキングを捉えていた。シュナイゼルは今、黒のキングを落とすことに全力を注いでいる。
カノンは窓際から主の傍へと歩み寄り、盤上を覗き込んだ。
「‥‥‥‥難しいですね」
「そうなんだ。あの子は日に日に強くなる。近頃は先が読めなくてね‥‥」
困ったように言うものの、声は面白がっているそれだ。
「黒のナイトが邪魔だね」
キングの前に立ちはだかるナイト。蹴散らしてくれようか。
駒を進めたそのときだった。
執務室にコールが入る。素早く応対したカノンを横目に、興を削がれてしまったシュナイゼルはお終いとばかりに執務椅子に背中を預けた。
「シュナイゼル殿下、バトレーから知らせが入りました」
「あぁ」
「ルルーシュ殿下がガウェインを持ち出したようです」
「‥‥‥なんだって?」
シュナイゼルは思わず身を乗り出した。しばし悩んだ後、またゆっくりと椅子にもたれ掛かる。
「構わない、好きにさせてやるといい」
「しかし、」
「先が読めない子だ、まったく‥‥」
額に手を当て憂い顔。けれどやはり、彼の声は面白がっていた。