騎士の条件


01



 ジェレミアは困っていた。困り果てていた。悟りの境地、というものがあるが、ジェレミアは今困りの境地に立っていた。
 なぜなら、固い生地でできた軍服の腹辺りに、小さな、本当に小さな頭が押し付けられている。そしてさらに、小枝のように細い腕が二本、ジェレミアの腰にしがみついているからだ。
「あ、あのっ、」
 前にも後ろにも動けない。かといって引き剥がすことも。ジェレミアに抱きついてくる体は、本当に大事なもの、至高のもの。気安く触れてはいけないのだ。
「っル、ルルーシュ様、」
 いけません。
 何がいけないのか、そんな言葉が口を衝く。
 たかが警備担当の男に抱きついてはいけないのか、それとも皇族が泣いてはいけないのか。
 ルルーシュは、後者ととったようだった。
「‥‥‥っ、う、グスっ」
 見上げたルルーシュの顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。母、マリアンヌ譲りの可憐な顔を歪ませて、ジェレミアを潤んだ瞳で見つめてくる。そしてまた、わっ、と泣き出し、ジェレミアの腹に顔を埋めた。
「も、申し訳ありませんっ!」
 皇女殿下を泣かせてしまった。重罪ものだ。
 ジェレミアは狼狽え、顔面を蒼白にさせる。妹がいるが、泣いたときの対処法など知らなかった。
 誰か。
 辺りを見回すも人気は無い。庭に面した明るい廊下には、ルルーシュとジェレミアの二人しかいなかった。通りがかるメイドも、他の警護の人間の姿も見えない。
 アリエス宮で、泣いているルルーシュを発見したのは偶然だった。柱の影に隠れるようにして縮こまる小さなルルーシュを、不審人物と早合点して引きずり出したのが運の尽きだった。
「ルルーシュ様‥‥」
 途方に暮れて、泣きたくなる。いっそ泣いてしまおうか。
 そもそも、どうしてルルーシュ様は泣いているのだろう。妹君とは違い、おっとりとした性格であることは知っていたが、こうも子供っぽく泣く方ではなかった筈だ。庶民出のマリアンヌ様のことを悪し様に言われても、気丈に振る舞う方であった。まだ幼いというのに、ジェレミアは皇族の血というものを見た気がしたものだ。
「‥‥‥‥その、ルルーシュ様、‥‥御身に触れること、お許しください」
 意を決し、ジェレミアはやんわりとルルーシュの肩に触れた。落ち着かせるようにゆっくりと、かなりぎこちなくなったが肩を撫でる。とても薄い肩であるのにびっくりして、思わず指が震えてしまった。
 しかし気を取り直し、慎重に、最大限の敬意を払って、ルルーシュの体をそっと引き剥がす。ジェレミアは膝をつき、泣いているルルーシュと目線を合わせた。
 ルルーシュの涙に濡れた瞳は、とても美しかった。皇帝譲りの紫紺の瞳。そこから零れ出す涙の一つ一つに、とてつもない価値があるように思えてしまう。
 ジェレミアは状況も忘れ、しばらく見蕩れてしまった。が、はっと我に帰ると慌ててハンカチを取り出し、ルルーシュへと差し出した。
「ルルーシュ様、どうぞお使いください」
 紳士の嗜み、丁寧にアイロン掛けされた清潔なそれを、ルルーシュは受け取った。
 ジェレミアの腕ごと。
「な!? ああああのっ、ルルーシュ様!?」
 ジェレミアの手をぎゅうっと掴み、ハンカチに顔を押し付ける。ルルーシュの突飛な行動に、ジェレミアは盛大に戸惑った。
 誰かー誰かー!
 助けを呼びたいがそんな無礼な真似はできっこない。なんでどうしてよりにもよって自分がこんな目に。
 ジェレミアが己の不運を呪っている間も、ルルーシュはハンカチに顔を埋め静かに泣いていた。ときどき揺れるルルーシュの細い肩が、ジェレミアの憐憫を誘う。
 困り果てた末に、ジェレミアは分厚い掌でルルーシュの背中を引き寄せた。
「無礼をどうかお許しください」
 恐れ多いことをしている。しかし、今のルルーシュを放っておくことは、騎士道精神に反するとジェレミアは考えていた。
 木漏れ日の差し掛かるアリエス宮の廊下。ジェレミアは小さな皇女をそっと胸に抱きしめ、震える背中を撫で続けた。

++++

「ジェレミア」
 高慢な調子で名前を呼ばれたジェレミアは、だが嬉しそうな顔で声の主の元へと馳せ参じた。
 重厚なデスクの向こう側に、ジェレミアの主人がふんぞり返って座っていた。
「遅いぞ」
 不機嫌も露に書類をデスクに叩き付け、部屋の主は言い放った。二秒で駆けつけた部下に対してその仕打ち。しかしそれでもジェレミアは喜色を浮かべ、主人へと謝罪する。自分に掛けられる言葉、眼差し、そのどれもがこの身に余る幸せだった。
 しかしこうも理不尽に怒るというのも珍しい。部下の誰かがつまらないミスでも犯したか、はたまた女性の日‥‥‥失敬。
「ルルーシュ様、このジェレミアに御用でしょうか」
「用が無ければ呼んだりはしない」
 やはり機嫌が悪い。ルルーシュは頬杖をつくと、正面に座るジェレミアを睨みつけた。何か無言の訴えをひしひしと感じるのだが。
「あの、ルルーシュ様?」
「‥‥‥‥‥兄上がな、」
 それだけ言って、ルルーシュは押し黙ってしまった。
 兄上とはつまり第二皇子、シュナイゼルのことだろうか。
 黒い執務服を身に纏ったルルーシュは、今年で齢十七になる。ブリタニアの執政に参加し、第二皇子シュナイゼルの右腕とも目されていた。他に接点のある兄といったらクロヴィスがいるが、ルルーシュの深刻な表情からすると、おそらくシュナイゼルを指していると思われる。
 また無理難題を押し付けられたのかもしれない。ルルーシュ様曰く、試されている、とのことだったが、毎度苦悩を浮かべる主人を思うと、ジェレミアの心も痛む。
「ルルーシュ様、何か私にできることがありましたら何なりとお言付けください。このジェレミア、ルルーシュ様の為ならば」

「お前を私の騎士に召し上げたいと言ったら、兄上に反対された」

「‥‥‥‥‥‥‥」
 今、なんと仰られた。
 ルルーシュ様の騎士。この、私が。
「えぇえええええ!!」
「私も叫びたい気分だ」
 ルルーシュは盛大な溜息をつくと、頬杖を崩し、ぺたりとデスクに突っ伏した。少年のように短く切り揃えられた髪が頬にさらりとかかる。その様が実に美しかったが、ジェレミアはただただ驚き何も考えられなかった。
「兄上め‥‥‥っ、お前では力量不足だと言うんだぞ。ふん、そんなことは重々承知だ」
 グサ。
 見えないナイフがジェレミアの胸に突き刺さった。
 確かに自分の力量なぞ、ラウンズや他の皇族方の騎士に比べれば劣ってしまうのは否めない。いいさ、分かっている。
 でも、いつかっ、いつか‥‥!
「ジェレミア、泣くな」
「な、泣いて、などっ、‥‥‥くぅっ」
 思わず崩れ落ち、ダンダンっと床に拳を打ちつける。その嘆きの様を見つめながら、可愛い、と呟く皇女がいることなどジェレミアは知る由もない。
「なに、私がすると言ったらするんだ。兄上には義理で教えたに過ぎん」
 咽び泣くジェレミアの傍らで腕を組み、胸を張るルルーシュは自信満々に語った。だから泣くなとハンカチまで差し出されて、ジェレミアはこの方の顔には似合わない豪気な性格に呆気にとられた。
 しかしふと、ルルーシュの勝ち気な笑みが薄められる。どこか幼く、儚くなった。
「ジェレミア卿、と呼んでいたな、昔は‥‥」
 どこか懐かしむように、ルルーシュは目を細めてジェレミアを見上げていた。日々輝きを増す紫紺の瞳、その中に自分の姿が映っている。それを認めるたび、ジェレミアは感動にも似た深く静かな衝撃をいつも感じるのだ。
「‥‥‥‥あれから、私は成長しただろうか」
 気弱ともとれるルルーシュの声音に、ジェレミアは困惑した。今のルルーシュが、あの日泣いていた少女とどうしても重なってしまう。目の前にいるのは、淑女と称される妙齢の女性であるというのに。
「ジェレミア。私は、お前にどう映っている? アリエス宮でドレスを着て、母上やナナリーだけしか見えていなかった子供の頃から、少しは何かが変わっているだろうか」
「ルルーシュ様‥‥」
「変わっていないのかもしれん。あの日、お前に泣き縋ったときから、何一つ」
 騎士云々が、まさにそれだろう。
 ルルーシュは自嘲に口元を歪め、そして背を向けた。
「お前の率直な気持ちが聞きたい。私の騎士になりたくないのなら、それで構わない。罰しはしないさ」
 だから、ジェレミア。
 頼りない背中が、訴えかけてくる。何を。‥‥自分は、分かっている筈だ。
「‥‥‥‥私は、ルルーシュ様、私は」

 貴方の、騎士になりたい。

 驚くほど簡単に滑りでた言葉に、ジェレミア自身が驚いていた。けれど胸の内には、この願いがずっとあったことを自分は知っていた。知ってはいたが、表には出さず秘めていた。いつか優秀過ぎるほど優秀な騎士が、ルルーシュの側に侍るだろう。それは自分ではないと分かっていたから。
「身の程知らずと、罵られましょう、嘲笑もされましょう‥‥‥しかし、それでも私はっ、」
 あの日、小さな体で縋ってきた貴方をお守りしたいと。
「‥‥‥‥‥言ったな?」
 ルルーシュの肩が、ぴくりと揺れた。そしてゆっくりと振り返る。
 それは満面の笑みだった。
「兄上っ、聞きましたか! ジェレミア自らが私の騎士になりたいと言いました!!」
 ‥‥‥‥‥‥え。
「えぇえええええ!!」
「私も叫びたい気分だ」
 兄上って兄上って、えぇえええ‥‥!!
「ルルーシュ様!?」
 涙目で問うジェレミアを躱し、ルルーシュは隣の部屋へと繋がる扉を開け放った。そこではなんと、シュナイゼル第二皇子と部下のお三方が優雅にティータイム。えぇええええ。
「やあ、ルルーシュ。君の入れてくれた紅茶、とても美味しいよ」
「へーそうですか。それよりも兄上、しかと聞いていましたね?」
「何やら分不相応な願いごとが聞こえたような聞こえなかったような‥‥」
「ジェレミア自らが望めば、もう口を挟まないと貴方は言った!!」
「お代わりが欲しいな」
 兄上!!
 ルルーシュの雷が明るい部屋に落ちる。ジェレミアは動けなかった。心臓も止まっている気がするような。
「ジェレミア卿。私は君のことを、身の程を弁えた人物であると思っていたよ」
 しかし次期皇帝と目されるシュナイゼル皇子の眼差しに射すくめられ、休んでいた心臓が一気に活動を始めた。ジェレミアはだらだらと冷や汗を流し、土下座したい気分に駆られた。
「兄上っ、ジェレミアを脅すのは止めていただきたいっ」
「彼ならば絶対に断ると思っていたのに‥‥」
「私は彼がいいのですっ、彼以外は嫌だっ」
「もっと他に優秀な騎士はいると思うがね。父上もお前の働きは認めているし、望めばラウンズから一人差し出してくれるかもしれないよ?」
「お高く止まったラウンズなどくそくらえです!」
 部屋の空気が一瞬凍った。シュナイゼルに至っては、優美な笑顔のまま不自然に固まっている。
 皇族が、いやルルーシュ様が、くそ‥‥。
「‥‥‥‥っあ、兄上には、分からないんだっ、」
 誰もが固まっていることをいいことに、ルルーシュはジェレミアの腕を引っ張り執務室を出てしまった。廊下をずんずんと突き進み、ルルーシュはその間ずっと無言でいた。


 やがて着いたのはアリエス宮。ある一つの家族の幸せが奪われた場所でもある。寂し気な佇まいの中、ルルーシュは誰もいない廊下で立ち止まった。ジェレミアは既視感を覚えるも、敢えて何も言わなかった。
「ジェレミア」
 向かい合い、見つめ合う。ルルーシュの背は、ジェレミアの肩辺りまで届いていた。
 美しくなられた。可憐な幼少期を脱し、今は立派な女性だ。しかし瞳は相変わらず不安に揺れている。このまま泣き縋ってきてもおかしくはないほどに。
「兄上の言葉など‥‥‥っ、誰が、何を言おうとも、私は」
 どこか必死な様子のルルーシュを制し、ジェレミアは跪いた。先ほどから気付いていた。受け取ったハンカチは、かつて幼いルルーシュの涙を拭った己のもの。ずっと手元に置いていたのか、なぜ。
 理由など知らない。自分の何がルルーシュの琴線に触れたのか。けれど、求められていることだけは分かっていた。
「ルルーシュ様‥‥‥」
 ジェレミアはゆっくりと頭を垂れる。そして、騎士となる誓いの言葉を告げた。




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