神様あと少しだけ




 不器用な人だったのだろう。
 大きな手でルルーシュを抱き上げる様子はひどくぎこちなかった。ルルーシュに触れる所作は、厚い革手袋のせいだけではなく緊張で凝り固まっていたように思う。鉄面皮の向こうで動揺していたのだろう。
 今なら思い出せる。慣れない笑みを浮かべようと唇をひくひくさせていた父の奮闘が、子供心にくすぐったかった。
 庭には薔薇が咲き乱れていた。えも言われぬ甘い香り。父は、帰るときにはいつも何本か手折って持ち帰っていた。芯の固い蕾を選ぶのが、ルルーシュの役目だった。
「ちちうえ」と舌足らずに呼ぶと、「うむ」という素っ気ない返事ばかりがいつも返ってきた。
 離れたところで母が笑みを噛み殺す。ナナリーが不思議そうに首を傾げていた。ルルーシュはこみ上げる不思議な胸の温かさを覚えている。
 あの日、あのとき、アリエスの離宮にはたしかに幸福があった。



「それなのに、どうしてだろうな。どうして私達は、幸せになれなかったのだろう」
 朱の大海を眼下に臨みながら、ルルーシュはぽつりと呟いた。
 空が暮れ泥む時間帯。航空艦がその大きな船影を太平洋上に停止させていた。
 背後に立つジェレミアの姿が、私室の窓硝子に映っている。同情した様子も、また思案する様子も無く、彼は静かな眼差しで硝子越しにルルーシュを見つめていた。
「父上は、母を愛していたのだろう。私のことも、ナナリーのことも」
 V.V.の言葉が甦る。彼もまた、母を愛していたと聞く。
「互いに想いあう夫婦がいて、子供がいて、なのに幸せになれない道理とは何だと思う?」
「‥‥‥私には、図りかねます」
 父が、ブリタニアの皇帝であったからか。ギアスなるものが存在したからか。それともジェレミアの言うような図りかねない何かのせいで、私達家族は幸せになれないことが予め決まっていたのだろうか。
 ルルーシュは硝子に映る自分と目を合わせ、自嘲した。
「答えは、驚くほどシンプルなものだったのかもしれない」
 素直に生きていれば、容易く紐解けるような、ごくごく当たり前の。
 世界が、嘘が、誰もが幸福に。父と母が羅列した言葉のどこにも、ルルーシュが望む答えは無かった気がする。
 きっと答えは簡単だった。世界を根底から覆そうとしなくてもよかったんだ。とても身近で些細なものが、ルルーシュ達家族の答えだった。
「‥‥‥薔薇を摘んで差し出すとき、父上は少しだけだが屈んでくれた。そのとき聞こえた革靴の軋る音、私に重なる大きな影、触れた指先、‥‥‥‥分かるか、ジェレミア。私の幸せだ」
 唐突な話題の転換にも、ジェレミアは戸惑いを見せなかった。ふと表情を緩め、小さく頷いてくれた。
 不意に歪んだ視界もそのままに、ルルーシュは額をこつりと窓硝子に押し付ける。
「恐ろしい皇帝など、私の中にはいなかった。ただ不器用な父上。ナナリーに飛びつかれて、息を止めてしまうほど子供に不慣れな愛しい人」
 皇帝だろうが何だろうが、そんなことはルルーシュにとってはどうでもよかった。毎日でもアリエス宮に訪ねてきてほしかった。母と寄り添っていてほしかった。
「閃光のマリアンヌなど知らない。厳しくて優しくて誰よりも綺麗な母上がいた。私を産んでくださった母上。ナナリーを産んでくださった母上」
 笑顔の裏で恐ろしい考えが動いていたことなど知りもしなかった。けれど向けてくれた愛情は本物だと信じている。あんなに不器用な父を愛した人だから、きっと。
「多くを求めてなどいなかった。ほんの小さな私の幸せを、叶えてくださるだけでよかったんだ。世界がどうとか言われても、分かるわけがないだろうっ、」
 語尾が震える。そのとき初めてジェレミアの動揺がルルーシュに伝わってきた。濡れる頬を感じながら、ルルーシュは静かに泣いた。
「世界はそんなに汚れていただろうか。私が幸せを感じた世界は、父上達にとっては、価値の無いものだった?」
「いいえ。そんなことはありません」
「私の幸せをお知りになったら、父上は、母上は、どんな顔をしたのだろう‥‥」
 言葉にしたことは一度もなかった。言えば、奇妙な子供だと思われるのが怖かったのかもしれない。本当に些細で、日常に溢れていて、誰もが当たり前に手に入れられるようなものだったから。
 けれど、言っていればよかったと今さらながらに思った。
 すべては過ぎ去った日々。後悔しても仕方が無いけれど。
「‥‥‥‥遅くはないと思います」
 激情を押さえ込んだような低い声音が、すぐ傍でした。硝子を見やると、反転した自分の姿にジェレミアが重なっていた。
「その為に、戦っておられるのでしょう? 誰もが明日を手に入れられるように、ルルーシュ様は今戦っておられる。見せつけたいのではありませんか? 証明したいのではありませんか? 幸福は、決して消え去りはしないのだと。遅いことなどありましょうか?」
 はっと振り返った目の前に、ジェレミアの顔があった。左側は仮面に覆われ、右目だけがルルーシュを捉えていた。
 視線が絡む。瞳に映る己の姿。近いからこそ分かる彼の匂い。それが今、自分にとっての、
「ジェレミア、」
 ほとんどが音にならなかった掠れた声音。特別を込めて呼ぶようになった彼の名前は、二人きりの室内に消え去った。
 近しい距離に気付いたのか、ジェレミアがわずかに顎を引き、離れていった。
「‥‥‥‥私は、覚えております。アリエス宮の幸福を」
 ジェレミアは一度だけ目を瞑った。瞼の裏に想い描くかのようなその仕草に、ルルーシュは微笑を浮かべずにはいられない。自然と手を伸ばし、彼の左腕に触れた。
「では、ずっと、覚えていてくれ。私が死んだ後も。ずっと、ずっとだぞ」
 固い左手。おそらく機械化された左半身すべてが血の通った感触では無いのだろう。幼い時分に触れたものとは随分違った。
 冷たくも温かいそれに、願いを込める。
 ふと顔を上げると、何やら難しい表情のジェレミアがいた。
「‥‥‥‥それは、私がルルーシュ様よりも長生きすると? おめおめ生き残れということですか?」
「嫌か?」
「当たり前です」
 憤ったような表情で言い切ると、ジェレミアは唐突に跪いた。どうしたことだろうと同じく膝を折ろうとしたルルーシュを制し、彼は言った。
「『生きろ』と、貴方はクルルギにギアスをかけられましたな?」
「あ、あぁ、」
「では今度はご自分に『生きろ』と。そうギアスをかけてくださいませ」
 己にギアスをかけることは可能だ。しかし以前、マオのときに。
「ルルーシュ様。さあ」
「あぁ、‥‥‥いや、しかし、」
 ギアスキャンセラーの存在を思い出し、まずいな、とルルーシュは舌打ちしたくなった。自分に『生きろ』なんてギアスをかけてみろ、これからの作戦すべてに支障を来す。自身を前線に晒した戦略に、そのようなギアスは邪魔でしかない。それほど事態は切迫していたし、なにせ相手はシュナイゼルだ。命を賭けて臨まなければ。
 ジェレミアの追求をのらりくらりと交わし、ルルーシュは話を切り上げようとした。しかし最初に握った自分の手を逆に彼に取られ、ギアスをかけろと迫られる。
「ジェレミア、後で、そうだ後にしよう、」
「叶えてくださるまでは離しません。ルルーシュ様、このジェレミアの願いを、どうか」
 願いじゃなくて脅迫じゃないか。
 散々に渋った結果、ルルーシュは両目を赤く染めた。見つめた先は、ただ一人。
「‥‥‥‥生きろ、ジェレミア」
 するりと手を頬に当て、至近距離で命令した。命令と言うには声に甘さが多分に含まれていたが。
「生きて、私の幸せを、ずっと覚えていてくれ‥‥‥‥私を、忘れるな」
 しばし、沈黙が生まれた。
 何が起こったのか分からない、そう言わんばかりにジェレミアが目を見開いていた。
 しっかりギアスはかかった筈だ。ルルーシュは一つの大きな仕事を終えた後のように、深い溜息を零し、ゆるゆると肩の力を抜いていった。
「私の、幸せ‥‥」
 今は驚いた顔で停止している。
 それが、ルルーシュの幸福だった。




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