愛想が無いとかふてぶてしいとか色々言われる。もっと笑えとか怒ってみろとか無茶な要求、本当に辟易する。
自分は笑いたいときに笑うし、怒りたいときに怒る。けれど笑いたいときも怒りたいときも無いから、表情に浮かべようがない。悪いのは世の中。世の中って、本当つまんない。
「そう思われるのは、アールストレイム卿の世界にまだ誰も住んでいないからでしょう」
私の世界?
首を傾げて隣を仰ぎ見れば、優しい目とぶつかった。
「一人だけの世界は心地良いものですが、そうでないのもまた別の心地良さがあるのですよ」
簡素な執務服に身を包んだその人は、唇を上品に吊り上げた。綺麗に綺麗に笑う人。アーニャは思わず『記憶』した。
「殿下の世界には、誰か、いるのですか」
「母と妹がおります」
「世界というのは、アリエス宮、ですか」
「そうではありません。なんと説明すればよいのやら‥‥」
シュナイゼル第二皇子の懐刀と言われている人にも、説明しにくいことってあるんだ。
意外、と呟けばその人は困ったように笑った。その表情は初めて見るから、アーニャはまた『記憶』した。
「国が、あるでしょう? 国には国境がある。私はその国の王様で、国境を渡って入ってこようとする人間を選別します。入っていい人間と、入らせたくない人間。入ってもいいと思った人間は、私の国の住人、国民になります。私の国では国民は決して死にません。長く永くあり続ける。それが私の世界なのです」
「家族じゃなくても、入れるのですね」
「えぇ。ただ私は心が狭いので、国民はまだ少ないのですが」
そう言って、殿下は笑った。よく笑う人だ。殿下はまるで息をするように笑う。シュナイゼル第二皇子とよく似たそれは、やはり兄妹だからだろうか。
笑みの奥に、一体何を隠しているか『記憶』してみたい。
「‥‥‥国民には、」
「はい」
「どういう人が、なれますか」
温かい人ですか、優しい人ですか、か弱い人ですか、それとも足の速い人?
てんでバラバラな国民の基準に、殿下は軽く目を開く。そしてやはり笑った。
「そうですね‥‥‥色々な人がいます」
「例えば?」
「愛している人、守りたい人、‥‥それから私の許可無く勝手に入ってきた人や、憎いと思う人もいます」
最後のほうは苦笑混じりだった。殿下が言うには、完璧な国境は現実にも無いのです、とのこと。
「私の国では王様を深く傷つけてもその国に居続ける国民がいます。また王様を脅かす国民も。私は彼らが怖い。いつか私の国を破壊するのではないかと、いつも怯えています。けれど、一度私の国に住まわれてしまえば、追い返すのは至難の業なのです」
現実の国のほうがよっぽど扱いやすい。殿下の呟きが風に乗って消えた。首都を一望できるテラスに二人。アーニャの向かいで、殿下は優雅に紅茶を口に含む。
喉を潤した後、殿下は不意に意味ありげな顔をした。
「中には、誰にも見せたくない国民もおります」
「他の、国民にも?」
「えぇ。王様だけが見て触れて想う。国の中にたった一人だけ、特別な国民がいるのです」
アーニャの中で、好奇心が膨らんだ。思わず携帯を握りしめ、前のめりに殿下を伺う。その特別な国民を『記憶』したい。
「それは、どんな人ですか」
殿下はじっとアーニャを見つめ、ふふ、と笑った。
「良い顔をしていらっしゃる」
「殿下?」
「可愛いという意味です」
殿下の顔が近づき、アーニャの頬に何かが当たった。きょとんと見上げると、「お別れの挨拶です」と。
直後に、テラスに近づく気配を感じた。振り向いた先に、見慣れない男が立っていた。
「私の迎えです。それではご機嫌よう、アールストレイム卿」
偶然の出会いから始まったお茶会は終わりを告げた。あまり中身の減っていないティーカップを見下ろし、アーニャは徐に頬を撫でる。ここに、殿下の唇が当たったのだ。
誰かにキスされたのは初めて。自分の顔、『記憶』しておこう。
最後にもう一度後ろを振り返り、殿下の背中を『記憶』しようとした。けれど小さな画面に映った影を見て、アーニャの指は固まった。
「あ‥‥」
思わず零れた声に、遠くにいた殿下がタイミングよく振り向いた。掲げられた携帯を見て、にっこりと笑う。内緒ですよ、と言われた気がした。
迎えに来た男の腕に手を絡め、一瞬だけ肩にもたれかかった殿下。笑っていない殿下。とびきり綺麗な表情を浮かべた殿下。
あぁ、殿下。その人が。